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小林一三

こばやしいちぞう

解説
1873年1月生。山梨県出身。1892年12月に慶応義塾大学理財科を卒業し、1893年に三井銀行入社、東京本店秘書課に配属となる。1893年9月大阪支店勤務、1897年1月名古屋支店勤務、同年5月名古屋支店計算係長、同年7月名古屋支店貸付係長、1899年8月大阪支店貸付係長、1901年1月東京箱崎倉庫勤務、1902年三井銀行本店調査係検査主任を務め、1907年1月に退社。在職中の1905年に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道株式会社の創立に参加して専務となる。1907年4月から同年8月まで阪鶴鉄道監査役、同年10月から1910年3月まで箕面有馬電気軌道株式会社専務取締役、1913年7月宝塚唱歌隊(のち歌劇団)を創設。1916年10月から1927年3月まで箕面有馬電軌専務取締役(1918年2月阪神急行電鉄と改名)、1927年3月から1934年1月まで阪神急行電鉄社長を務めるとともに、1927年7月東京電燈株式会社取締役、1928年3月東京電燈株式会社副社長、1932年8月から1937年5月まで東京宝塚劇場社長、1933年11月から1940年3月まで東京電燈株式会社社長、1936年12月から1940年7月までは東京電燈株式会社会長兼務、1934年1月から1936年10月まで阪神急行電鉄会長、1937年3月から1940年7月まで日本軽金属会社社長を歴任。1940年7月から1941年9月までは第二次近衛内閣で商工大臣を務め、1940年8月から同年11月までは蘭領印度特派使節も担った。その後、退官し1941年4月に貴族院議員となる。日本敗戦後は、1945年10月から1946年3月まで幣原内閣の国務大臣として、戦災復興院総裁に就任。1946年8月に公職追放となり、1951年8月に解除となったのち、1951年8月から1956年11月まで宝塚音楽学校校長、1951年10月から1955年9月まで東宝映画社長、1956年2月からは新宿コマ・スタジアム社長を務めた。1957年1月没。
参考資料
秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、221頁。日外アソシエーツ株式会社編『政治家人名事典』日外アソシエーツ株式会社、1990年、214頁。
基本語(日本語)
小林一三
基本語(英語)
Kobayashi Ichizo
同義語
小林商工大臣
関連語
内閣情報部参与商工大臣貴族院議員蘭領印度特派使節戦災復興院総裁
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