キーワード検索キーワードの入力による資料検索を行います。辞書検索(カテゴリ)検索キーワードが登録された辞書データです。地名・人名・出来事等のカテゴリをクリックすることで、検索に適したキーワードへナビゲートします。辞書検索(五十音順)検索キーワードが登録された辞書データです。五十音リンクをクリックすることで、検索に適したキーワードへナビゲートします。レファレンスコード検索レファレンスコードによる資料検索を行います。過去に閲覧した資料をもう一度閲覧したい時に便利です。他機関との横断検索アジア歴史資料センターのデータベース、国立公文書館のデータベース、および他機関の運営するアジア歴史資料等のデータベースについて、横断検索することができます。地名・人名・出来事事典から検索地名・人名・出来事から、資料を検索するためのキーワード(資料作成当時に使われていた用語)を調べ、検索結果の精度を上げます。TOP辞書検索(カテゴリ)階層から検索する階層から検索する所蔵資料を省庁別等に「資料群」としてまとめました。資料群 → 簿冊 → 件名の階層構造や概要が分かります。国立公文書館外務省外交史料館防衛省防衛研究所琉球大学附属図書館滋賀大学経済経営研究所北海道立図書館北海道立文書館神戸大学附属図書館大分大学経済学部教育研究支援室スタンフォード大学フーヴァー研究所日本貿易振興機構アジア経済研究所東洋文庫新聞通信調査会山口大学図書館辞書検索(用語詳細)一つ前に戻るこの辞書データを使ってアジ歴のデータベースを検索します。ピブンぴぶんこのキーワードで検索解説1897-1964年。タイの軍人・政治家。本名はプレーク・キッタサンカ。欽賜名はピブーンソンクラーム。現在では「ピブーン」と表記されることが多い。陸軍士官学校と参謀学校を卒業後、1924年から1927年まで外国派遣将校としてフランスの砲兵学校に留学。その際、1927年にプラディット(プリーディー)とともに人民党を結成し、タイの絶対王政打倒を計画した。帰国後の1932年に立憲革命を主導して立憲君主制を樹立し、35歳で初代内閣の国務大臣となる。1936年には国防大臣となり、1938年12月16日に41歳で首相に就任。1939年10月6日には「国家信条」を公布して、国名をシャムからタイに改めた。また、タイ語を国語とする国民形成、汎タイ民族運動などを推し進めた。太平洋戦争開戦後、ピブン政権は日本の駐留を認め、日泰攻守同盟を結び日本軍の物資調達に協力した。しかし、1943年11月の大東亜会議には出席しないなど、戦局の悪化ととに日本と距離を置くようになった。日本敗戦後、ピブンは英印進駐軍により戦犯容疑者としてタイ国内で拘置された。1946年に釈放されると、1948年にクーデターにより政権に復帰したが、1957年には自らがクーデターにより政権の座を追われ、1958年1月にアメリカを経て日本に亡命し、1964年に相模原で死去。参考資料「ピブーンソンクラーム」(市川健二郎執筆)(石井米雄・吉川利治編『東南アジアを知るシリーズ タイの事典』同朋舎、1993年)281~282頁。村嶋英治『ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』岩波書店、1996年、第8章。基本語(日本語)ピブン基本語(英語)Phibun Songkhram同義語ルアン、ピブーンルアン、ピブン、ソンクラームルアン、ピブンソングラムピー、ピブン、ソンクラームピブン総理ピブン首相ピブーン国防相ピブン元帥Phibun関連語ピブン政権ピブン狙撃事件泰国軍総司令官立憲革命日泰攻守同盟日タイ攻守同盟条約表記ゆれピブーンビブンビブーン上位カテゴリタイ(人名)このページのURL https://www.jacar.archives.go.jp/das/term/00000088