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レファレンスコード
概要

No.

[レファレンスコード]C15011082500

[所蔵館における請求番号]中央-終戦処理-817(所蔵館:防衛省防衛研究所)

  • [言語]日本語

    No.

    [レファレンスコード]C01001707900

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    [規模]60

    [種別]

    • [所蔵館における請求番号]陸軍省-大日記甲輯-S14-3-22(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]一受第二四三四号 庶発第五八六号 副官ヨリ関東軍、朝鮮軍、台湾軍、近衛、第十九師団参謀長 第一飛行師団、留守第一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十四、十六、二十師団参謀長、憲兵司令官宛通牒案 従来恤兵金ヲ以テ支給シアリタル首題ノ旅費ハ自令恩賜財団軍事援護会ニ於テ別紙 ノ通リ肩代リ支給スル如ク定メラレタルニ付依命通牒ス 追而昭和12年陸支普第一二〇七号及昭和13年陸支普第三五六号ノ内(関東州ヲ含ム以下同ジ)ナル括弧内ノ条項ハ自然消滅ノ儀ト承知相成度 陸支普第一五五二号 昭和14年5月26日 「注」 朝鮮軍ニハ(隷下師団ヘ通牒済) 其他ヘハ(貴軍限リ通牒) 内地 朝鮮及関東 ハ援護金
    • 作成年月日昭和14年5月18日~昭和14年5月26日
    • 作成者恩賜財團軍事援護會理事長 富田愛次郎//
    • 組織歴陸軍

    No.

    [レファレンスコード]C15011082700

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    [規模]1

    • [所蔵館における請求番号]中央-終戦処理-817(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]
    • 作成者援護局
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C03027929500

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    [規模]4

    • [所蔵館における請求番号]陸軍省-陸満普大日記-M38-7-29(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]満一乾第一三七号 外務省 恤兵団折半受領之件 外務大臣ヘ通牒案 在韓国群山三宗共同追吊会ヨリ奇贈シタル恤兵金七円十二銭也送第一八一号ヲ以テ送付ニ依リ同会申請之通リ陸海軍恤兵部ニ於テ折半受領致候条可@謝意ヲ表セラレ度此段及通牒候也 満発第二一八〇号 受領証 金七円十二銭也 但在韓国群山三宗共同追吊会ヨリ陸海軍ト寄贈シタル恤兵金七円十二銭在同地横田分館主任ヨリ送付ニ係ル医第一八@一年分 右正ニ受領候也 恤兵金折半受領ノ件 送方一八一号 前課ノ通在韓国群山三宗共同追吊会ヨリ金七円十銭陸海軍恤兵部ヘ折半受領方申出タル@ヲ以テ在同地横田分館主任ヨリ別紙@@券一葉送付@@査収相成度候也 明治三十八年三月九日 外務大臣 海軍 陸軍当大臣省 官房第一一二二号 陸費第二一六〇号
    • 作成年月日明治38年03月14日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C14030381900

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    [規模]14

    [種別]写真

    • [所蔵館における請求番号]満洲-満洲事変-279(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]巻頭の辞 第十四師団は昭和七年三月国民顴呼ノ声に送られて上洛に出動し禍乱の中に克く居留民保護の大任を尽し続いて北満に転するや酷暑の下悪路泥濘の地を馳駆し厳寒の下錯雑嶮難を踏破し困苦欠乏を忍ひて匪賊の掃蕩に民心の綏撫に恩威并施して皇軍の精華を発揮し克く帝国の権益を擁護して 皇威を四海に顕揚せり 御稜威の然らしむる所なりと雖も師団将兵の忠勇と之れか後拠たる九千万同胞の熱誠なる銃後の力に待つもの亦大なるものありと謂ふへし 飜つて護国の鬼となりし幾多の英霊を懐ふ時転た敬虔の念と同情の涙禁する能はすと雖も其の流血か東洋平和建設の礎とならは以て冥せらるへきか 当部は茲にかさ十四師団の出動より昭和七年十一月に至る間の状況
    • 作成年月日昭和8年2月
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C14030383200

    閲覧

    [規模]4

    • [所蔵館における請求番号]満洲-満洲事変-279(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]第十四師団作戦経過ノ概要 上海方面 一、昭和七年二月二十三日動員下令 二、動員完結ニ先チ二月二十九日歩兵第二十七旅団長平松少将ノ指揮スル歩兵第二十七旅団野砲兵第二十聯隊第一大隊工兵第十四大隊第一中隊主力ヲ先遣シ大阪ヨリ乗船シ揚子江口ニ至リ上海派遣軍司令官白川陸軍大将ノ指揮下ニ入ラシメ師団主力ハ動員完結ニ伴ヒ逐次屯営ヲ出発シ共ニ大阪ニ於テ乗船シ揚子江口ニ向フ 三、先遺セル平松旅団ハ三月七日師団主力ハ三月十日ヨリ呉淞ニ上陸シ平松旅団ハ上海附近ノ戦闘後敵ヲ追撃シテ南翔附近ニ前進セル第九師団ノ第一線部隊ト交代シテ守備ニ任スヘキ軍命令ニ接シ新ニ騎兵第十一聯隊ノ一小隊及独立山砲兵第三聯隊第二大隊ヲ併セ指揮シ強行軍ヲ以テ前進シ三月九日迄ニ主力ヲ以テ南翔附近ニ一部ヲ以テ江橋附近ニ進出シテ守備ニ任ス
    • 作成年月日昭和8年6月10日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C10061024900

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    [規模]1

    • [所蔵館における請求番号]陸軍省-雑-M29-13-120(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]恤第一一八〇一号 筆耕異動報告 一月二十一日解傭 筆耕足立重雄 一月二十六日傭人 尾越祐五郎 右之通異動有之候此段及報告候也 明治三十年二月五日 陸軍省副官部 御中
    • 作成年月日明治30年2月5日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C10061025200

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    [規模]6

    • [所蔵館における請求番号]陸軍省-雑-M29-13-120(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]当部雇員及筆耕中別紙之通異動有之候条此段及報告候也 明治二十九年十月九日 陸軍省副官部 御中 (表) 八月十一日 雇員 松下栄太郎 同二十七日 同 藤山甚太郎 九月一日 同 戸田周作 同 同 赤木藤次郎 同五日 同 内藤忠久 同十九日 同 田中巴 十月六日 同 鈴木元次郎 右雇員ヲ免ス (表) 臨時雇入解雇筆耕住所姓名 八月十五日 神田区業神保町九番地 伏谷竜吉 同十九日 麹町区五番町二番地生野方 白田国松 九月四日 豊多広郡内藤新宿五丁目二十七番地片岡広業方 早乙女四郎 同七日 牛込区若松町五拾二番地 徳永徹 同九日 麹町区平河町一丁目七番地松永里方 猪子隼人 同二十四日 四谷区仲町二百一番地真下梅吉方
    • 作成年月日明治29年10月9日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C10061025400

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    [規模]3

    • [所蔵館における請求番号]陸軍省-雑-M29-13-120(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]当部筆耕別紙之通リ異動有之候此段及報告ノ也 明治二十九年十二月二十五日 陸軍省副官 御中 明治二十九年十二月一日雇入 井芹俊治 同 足立重雄 同 早山悌次郎 同月二日雇入 山本常治 同月二十一日雇入 上野熊太郎 同 荒井宗作 同 田村太郎松 同 長尾健三 同年十一月三十日解傭 江原詮道 同年十二月八日解傭 等々力源三郎
    • 作成年月日明治29年12月25日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C06022470100

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    [規模]6

    • [所蔵館における請求番号]陸軍省-日清戦役戦役日記-M28-31-107(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]第三五五号 朝第四七二一号 恤兵部 未納寄贈品特別延期ノ件 二十八年七月 御指令案 伺之通 七月二十六日 朝第四七二一号 恤第一一六七四号 未納寄贈品特別延期ニ付伺 恤第一一六三七号ヲ以テ恤兵寄贈品未納受 領之義本月三十一日限リ納付之手続ヲ為サ シメ若シ右期限ヲ経過スルモ納付セザル者ハ之 ヲ不納者ト見倣シ取扱之件相伺六月一日 伺之通御指令相成爾来之取扱致シ来リ 候処今般日本赤十字社取扱ヒ係ル寄贈 品滞納致シ居リ到底期限内ニハ捌 方難致し来趣別紙之通同社長ヨリ申出 事実止ムヲ得ザル次第ニ存候間同社 取扱ニ係ル寄贈品処分ハ無納付特ニ願出 之通延期承認致シ本官ヨリ各受領官衙 へ其旨通報致度此段相伺候也 明治二十八年
    • 作成年月日明治28年7月22日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110558500

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    [規模]6

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]支那事変戦跡の栞 中巻目次 題字 陸軍大臣 陸軍中将 板垣征四郎 題字 前中支方面派遣軍量高指揮官陸軍大将 松井石根 序文 中支方面派遣軍最高指揮官陸軍大将 畑俊六 中支大観 (一〇) 附中支四省地図 (一二) 戦闘記録 上海附近の戦闘 (三七) 中支方面戦略大観 (三七) 附上海附近日支両軍戦闘要図・(三九) 上海方面戦前の状況 (三八) 火山中尉射殺事件 (四〇) 戦端遂に開く (四一) 上陸より羅店鎮の激戦 (四二) 陸皇軍・中支に出動 (四二) 羅店鎮方面の敵前上陸 (四三) 呉淞鎮附近の敵前上陸 (四三) 羅店鎮関夜の死闘(四四) 呉淞及び実山附近の野町闘 (八〇) 呉淞、実山の激戦 (八一)
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110558700

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    [規模]1

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]江蘇省地図
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110558900

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    件名上海

    [規模]10

    [種別]写真

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]上海 上海、及びその附近は、今回の事変に於て激戦の行なはれた地であることは、御承知の通りであるが、その戦況を語る前に上海の地形、その他の事情を呑み込んで置く方が便宜であらうと思ふので、戦国記は後廻しとして、先に上海の説明から始めることゝする。 〔地緯と交運〕「長崎県上海市」-上海には長崎県人が多いが、時折こんな宛名書きをした手紙が、長崎から上海へ舞ひ込むことがある。それほど長崎と上海は近いのである。長崎、上海問四百五十九涅、一書夜の航程である。(神戸、上海間は二書夜)日本から見ると満洲の方が支那より近いやうな気がするが、実際は支那の方がずつと近支那の心厳上海は長崎からその半分しかかゝらないのである。
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110559000

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    [規模]10

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]上海附近鳥瞰図 支里の地点から右の交叉黒のまで一直線を引いた地域が米租界と決定し、翌年英租界と合体していはゆる共同租界が出来たのである。 長髪賊の乱が咊まつた当時上海在住外人は五千六百人に達してゐた。(そのうち軍隊その他臨時に上海へ来てゐるものが二千八百人)今がら約七十年ほど前のことで、日本人はまだ殆んど来てゐなかつたやうである。その後共同租界は一八九九年、仏租界は一九〇〇年にそれぐ西方へ租界を延長し、現在の租界が出来上つたのであるが、清仏戦争、日清戦争、義和団事件、日露戦争等に際しても上海は常に中立を保つてゐたため、商工業大いに発達し、遂に今日の大をなすに至つたのである。 なほ外人の記すところによれば、
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110559100

    閲覧

    [規模]2

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]上海附近の戦闘 -上海敵前上陸より蘇州河完渡河まで- 〔中支方面戦略大観〕中支那方面の作戦は、支那事変に於ける日支の地位を決定のならしめた重要な作戦であつたと言へる。支那政治、経済、文化の中心をなす長江流域一帯に展開された決戦こそ日本の運命を決するものであり、東洋今後の運命を左右する重大な鍵であつた。 長江の流域には、数十年来培はれた列強の勢力があり、上海特別市は世界で最も複雑した国際都市である。しかも此の地方一帯の住民は北方の民族に比べて知識的であり、多血質であり、多年国民政府の排日教育によつて凝り固まつて居た。 盧溝橋畔一発の銃声によつて、支那事変の発端が開かれるや時局捨収策に奔命した国民政府は直
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110559900

    閲覧

    [規模]11

    [種別]写真

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]上海戦線各方面の状況 こゝで九月中旬以後に於ける上海戦線各方面の戦況を概述する。 〔最右翼、劉河鎮方面の状況〕 新たに揚子江下流上陸完了した我が新鋭の荻洲部隊は、九月十五日以来集結を終り爾後の攻撃を準備中であつたが、十九日早朝行動を開始して劉河鎮東南方四将の高宅、呉宅の線に進出、更に前面の敵に対し攻撃を開始し、激戦数刻彼我の銃砲撃は殷々として漸次西方に流れ、同日々没遂に朱宅、陣家村の線を占拠した。二十一日我軍は朝来の豪両を衝いて全線を挙げて攻撃を再行、夕刻迄には既に敵陣地を突破して、一挙その後方二粁の旋陸宅(羅店鎮西北四粁)沈宅、将宅の線に進出したのである。 続いて同日夜、佐藤、高橋両部隊は夜闇を利用し羅店鎮北方地区に行動し、二十五日朝に至り王
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110560000

    閲覧

    [規模]11

    [種別]写真

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]上海戦線総攻撃 上海全線はいよく十月二十三日総攻撃を開始したのである。この頃漸次判明した敵の第一線方面の兵力は実に四十二万余で、之に対し我が軍は空に、地上に、或は対壕坑道によつて敵の堅陣を一個々々爆破しつゝ歩、一歩敵を圧迫、十月初旬以来わが前線部隊は急角度の方向転換を行ひ四方の敵に備へると共に南下の態勢を採り上海戦局に一大転換を到来せしむるに至つたのである。 わが陸海の荒鷲群は、上海戦線に於て八月下旬以来全く独壇場で、連日地上部隊に協力し爆撃に、偵察に多大の功績を挙げて居たが、十月七日には陸軍前面の敵陣及び江湾、閘北の敵陣に反覆、徹底的爆撃を行ひ更に後方連絡線の遮断のため各要地、敵軍用列車等に夫爆撃を敢行、十九日
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110560200

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    件名嘉定

    [規模]1

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]〔嘉定(キヤ・テイン)〕この地は上海北停車場から京滬線により西走二十分余で達する南翔(ナンシアン)駅から、小蒸汽船で西北行すること約三時間余で到達する。嘉定県の県城で水利の便は極めて良好であるが、最近陸路の軍輸の便も開け、滬太汽車路の乗合自動車が東は羅店鎮、大場鎮から上海へ、東北は太倉へ通じてゐる。 市街の繁華なところは衛前湾と大橋で、街路は敷石され、人口は一万内外といはれてゐる。主要生業は農業で、住民の大半はこれに従事してゐるが、嘉定以北一帯は棉花の生産地として知られて州、無錫、上海その他各地へ輸出される棉花は相当な額に上り、嘉定には多数花行(棉花商)があり、何れも繰棉機を備へつけて、綿を製造してゐ
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110560300

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    件名瀏河鎭

    [規模]1

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]〔瀏河鎮(リウ・ホウ・チエン)〕こゝは実山の西北陸路六十九支里(約十二里)の地点にあつて、揚子江口に近く、遥かに崇明島と相対してゐる。瀏河口より約十支里(約二里)の上流に位する。瀏河は幅二十間、水深一間乃至一間半あり、水量豊富で流れは緩く、極めて良好なる河道をなし、瀏河から河口までの十三支里の間には相当大きな民船が各処に碇泊してゐる。陸路の便は羅店鎮と南碼頭、太倉へ乗合自動車が通じてゐる。 市街は瀏河の両岸に跨がり、東西に長く、街路は一般に狭く、僅かに車が通り得るのみである。 今ではこの地は戸数約一千、人口五千内外であるが、昔この地は上海の蘇州河が黄浦江より大きかつた当時、江南貿易の一中心地で、上海よりも遥
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省

    No.

    [レファレンスコード]C11110560400

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    件名太倉

    [規模]3

    • [所蔵館における請求番号]支那-支那事変全般-268(所蔵館:防衛省防衛研究所)
    • [言語]日本語
    • [内容]〔太倉(タイ・ツアン)〕は太倉県の県城で、崑山の東方水路三十五支里(約六里)小蒸汽船によれば三時間余で到達する。また河流はより瀏河との交通の便もある。また嘉定方面及び常熟へも乗合自動車が通じてぬるのである。ての地は元の時代、海運の便を図るためたててに倉庫を設けたので、太倉と呼ばれるやらになつたのである。人口は一万数千、城内は頗る広く、人家も稠密である。繁華な市街を大街といひ、大商店、茶館が多い。殊に小茶館の盛大なてとは附近にそその比を見ずといはれてぬる。街路は石畳で、そその幅は一間乃至二間であるが、処々は広庭があり、そそその附近には必ず茶館があつて、晴天の日などには卓子を置き、一般商人の喫茶及び商談
    • 作成年月日昭和13年11月1日
    • 作成者
    • 組織歴陸軍省


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